龍権(@ryuken_biz)のプロフィールです。

2004年に中国から来日し、現在永住者。
来日後は日本語学校と埼玉大学を経て、2010年に日本のIT企業に就職。
IT企業2社と貿易会社1社を経て、2017年4月にIT派遣に転向。
現在は日本のIT会社に派遣社員として出向中。

幼少期

中国吉林省の田舎、ある朝鮮族家庭で生まれています。

これは大人になってから母に聞いた話ですが、赤ちゃんの時からにぎやかなところが苦手だったそうです。集まりのところに行くといつも泣いていたと言っていました。この時すでに性格が決まっていたのでしょうか。

なぜか幼稚園登園を頑固拒否していました。何か束縛されているのではないかと思ったことを、ぼんやり覚えています。大人になってからも束縛されることは大嫌いなので、この性格もこの時決まったものでしょうね。

そして、やっと幼稚園に通い始めたと思ったら、やはりお母さん好きの子だったようです。実家が農家だったので、もちろん昼に両親は畑仕事をするわけです。そこで幼稚園から帰ってきた僕は家に誰もいないと、立ったまま延々と泣いていたそうです。「この子ちゃんと大人になれるかな」とお母さんは心配していたみたいですよ(笑)。

農家だったので、米だけには困らなかったです。そして、夏場になると自宅も畑で野菜もたっぷり取れていました。秋になるといつもいろんな野菜を漬物にして、秋〜春にかけて漬物で過ごしていました。その漬物も春頃になると味が変わってきて酸っぱくなるので、毎年春になるといつも食べ物に困っていました。畑や川治で山菜を取ってきて、食べていましたね。肉料理なんか食べられるのは、年に数回だけでした。

鶏をたくさん飼っていたので、卵はある程度自由に食べていました。ある程度というのは、卵は田舎で数少ない収入源の一つだったので、自由に食べることは許されなかったからです。一日卵2つくらいを炒め料理にしてくれていました。今でも記憶に残っているおふくろの味は、炒め卵です。油をたっぷり入れた炒め具合が絶妙な料理、未だに真似はできないですね。

そして誕生日になるとなんとー、ご褒美で卵を4つ食べられたんです。誕生日プレゼントやら何やら経験したことのない僕は、大人になった今でも誕生日に鈍感で、プレゼント云々に非常に後ろ向きです。自分の誕生日であっても、特別感をまったく持たないで普通に過ごしています。もちろん他人の誕生日にも鈍感で、特別なことがない限りプレゼントを贈ろうとは思っていません。

小学校時代

数学が好きでした。軽く本をパラパラ読んでいるはずなのに、一度覚えた数学の知識はなかなか忘れることなく、しかも理解も早かったです。そのゆえ、将来は陳景潤のような数学者になりたいと思っていました。大人になった今も数字は好きですけどね。

田舎の小さな学校でありながら、勉強はいつも学年のトップを争っていました。町では頭がいいことで有名でした(笑)。当時の担任先生は、僕が頭がいいからといって、4年生の時に本気で5年生に飛び級をさせたいと思うほどでした。結局校長先生に止められましたけど。

その代わりというわけでもありませんが、体はそのうえないほど虚弱でした。毎年季節の変わり目春と秋には、一週間ほどずつ風邪で倒れて学校を休んでいました。当時の中国では風邪にすぐ点滴を打つ文化だったので、嫌なほど点滴を打たれました。

中学校時代

中学生になってもその勢いは衰える気配がなく、成績はいつも学年トップでした。そのゆえ、皆に勉強を教えることが多く、クラスで学習委員を任されて、周りからも信頼される存在でしたね。

いろんな事情があってのことだと思いますが、中学校では3年間外国語として日本語を勉強していました。中国ではかなり特殊だと思います。たった3年間で日本語ができるようにはなりませんでしたが、これが日本語に触れる最初の機会でしたね。

進学は高校と専門学校の二択でかなり悩みました。当時決して裕福とは言えない家庭環境で、母が病気にかかっており、高校進学は家庭負担が大きすぎると思っていました。高校に進学すると、高校3年+大学4年で合計7年間家庭に負担をかけることになるからです。それに対して専門学校に進学すると、たった4年間で卒業して仕事に就くことになります。それで散々悩んだあげく専門学校を選びました。

今振り返ってみるとたった3年の違いなので、多少無理しても高校と大学に進む道を選んだ方が良かったかもしれません。過去のことなので、今更再選択できるわけでもないし、再選択できたとしてもどんな人生を歩んだのかは不明なので、考えないことにします。しかし少なくとも英語は今より上達しているはずです。「専門学校に進むと後々知識の足りなさを感じるかも」と当時父に言われることの意味が、やっと分かるようになりました。

専門学校時代

中学校卒業後は地元を離れて、鉄道専門学校に四年間通いました。遼寧省錦州市にある錦州鉄道運輸学校です。

当たり前ですが、この学校ではすべての授業が中国語で行われていました。地元で中国語をまったく話す機会のなかった僕にとっては、あまりにも大きな環境の変化でした。

まず、日常会話もできない。初期はルームメイトたちが身振り・手振りでいろいろ教えてくれました。授業も大変でした。ある程度聞き取りはできたものの、各科目の用語はゼロから覚えましたね。数学の記号やら化学名称やらすべてをです。

それに最初の半年ほどは、ホームシックで辛い日々を送っていました。それもそのはず、これまで一度も家を離れたことがなかったからです。でも、男はやっぱり男。半年ほど経過したら言葉と環境に少しずつ慣れてきて、そこから3年半はあっという間でした。え、もう卒業?と思いましたけどね。

子供の頃から虚弱だった僕は、この四年間でだいぶ走って体を鍛えていました。他、独学でギターを習ったりしていました。しかしいずれにせよ、一人が好きだったので、言葉が分からなくても一人で行動することが多かったです。皆とワイワイコミュニケーションをとることは少なかったです。

来日前の仕事

中国で鉄道専門学校を卒業してから、地元の鉄道会社に7年間勤めていました。地方にある鉄道会社だったので、旅客運輸より貨物運輸がメインでした。

貨物車両を繋いだり外したり、旗を振って機関車に指示を出す仕事を5年半もしていました。夏は炎天下で汗を流しながら走り回り、冬は最低マイナス30℃の極寒の環境でも同じ仕事をしていました。そのおかげでメンタルはだいぶ鍛えられていました。

その後は、運行指揮といってオフィスに座り、エリア全体の運行状況を管理する仕事を一年半ほどしていました。作業現場からオフィスに異動できたことでモチベーションを上がり、楽しく仕事をしていたことを覚えています。しかし当時の鉄道会社は赤字続きで、会社の合併により職場を失ってしまいます。職場がなくなり、また現場仕事に戻ることになります。

そこで、この職場には未来がないと気づき、更に酒漬けで成り立っている人間関係と何の変哲もない毎日に嫌気が差していたこともあり、人生最大の決断をすることになります。長年夢見ていた日本留学に向けて動き出します。

来日後の学校生活

2004年来日後は大田区千鳥にある日本語学校に2年間通いながら、日本語を学んでいました。
東京教育専門学院・多摩川校です。
留学生受け入れ氷河期と言われる時期だけあって、1年目には僕ともう一人ベトナム人学生の2名だけでした。
二年目には学生が何名か増えたのですが、それでも一番多いときに6名だけでした。

振り返ってみると、来日できたのが結構奇跡的な出来事でした。肌感覚では、その年語学就学ビザ許可率が数%だった印象でした。60人ビザ申請をして、一人も許可されていない話も聞いたことがあります。

なぜ僕だけが来られたかというと、中国で鉄道専門学校卒業後も大学同等レベルの専門学校で通信教育を受けていて、ちゃんと学ぶ意欲があると認められたのではないかと思っています。当時お金がなくて学ぶかとうかで悩んだ覚えがありますが、諦めなくて続けた結果が実ったと勝手に思っています。

話を戻して、日本語学校では学生が少ない分授業の効率は高かったです。
1年目には先生と1対1で授業を受けることも多かったです。
家庭教師みたいな感じでしたね。
そのおかげもあって、日本語の上達は速かったかもしれません。

日本語学校卒業後は埼玉大学工学部に通うことになりました。
当時はアルバイト代で生活費・授業料を賄っていたので、単に授業料が安いことを理由に国立大学を選びました。
それに、あれこれ在学四年間ずっと奨学金をもらっていたので、あまり苦労せず無事に卒業することができました。

クラスメートたちとの交流はほとんどなかったです。
クラスメートたちと年が大分離れていたのと留学生が僕一人だけであったこと、元々内気で喋ることが好きでなかったからです。
卒業後も交流はほぼないですね。

日本で就職

2010年に埼玉大学を卒業しIT会社に就職するも、仕事の難しさと新卒の給料の低さに衝撃を受けていました。
更に就職一年後、東日本大震災の影響で一度失業してしまいます。

失業を機にIT業界を辞め、他の業界に就職することを真剣に考えて就職活動をした結果、貿易会社に再就職することができました。
しかし、たった入社半年でその貿易会社も破産寸前になり、やむを得ず退職します。

二度の就職経験を活かし、再度就職活動をしていたら、またもやIT会社に就職することになりました。
ちょうど地震後IT業界が立ち直ろうとしている時期でもあって、仕事も順調に進みます。
幾つかのテスト案件や開発案件に携わり、経験を積んでいました。
毎年昇給はされていましたが、給料日にはショックを隠せませんでした。

安い給料をもらいながら数年間仕事を続けた結果、お金の大切さだけは肌で感じるようになりました。
IT会社によくあるのが、他の会社に出向して仕事をする派遣スタイルです。
どうせ派遣なら、派遣エージェント経由で契約した方が報酬が高くなることを知り、思い切り辞職しました。
そして、2017年4月から派遣エージェント経由でIT会社に出向しています。

派遣に転向

僕は2017年、エンジニア派遣の「パーソルテクノロジースタッフ」に登録して派遣されていますが、登録する際に驚くようなサービスを受けました。
なんと、元の会社の有給休暇を引き継いでくれるサービスでした。

辞職する時に、元の会社で消化しきれなかった有給休暇は無効になることが多いです。
そのために辞職をためらう方も多いのではないでしょうか。
しかし、「パーソルテクノロジースタッフ」さんは、その有給休暇を無条件に引き継いでくれたので、かなり良心的な派遣会社だと思いました。
このサービスは2019年2月現在は提供されていないですが、登録する際に軽く聞いてみるのが良いでしょう。

そして、なんと派遣でありながら2019年4月から交通費が支給されるようになりました。
これまた、派遣では珍しいことで、エンジニアのキャリアを本気で支援している会社だからこそできるサービスなんです。

2021年からはリモートワーカー向けに、リモートワーク手当が支給されるようになりました。もちろんリモートワークの場合交通費は支給されません。その時代にあった手当を支給するなど、柔軟な会社であります。

正社員の方が福利厚生が充実しているからといって、正社員にこだわる方が多いようです。
しかし、実際派遣社員を体験してみると、正社員に負けないほど福利厚生が充実していました。

信州に移住

そして2021年、コロナ禍の長期化が予想されるなか、ついに信州への移住を決意します。コロナ禍でリモートワークが普及されたおかげです。

信州に引っ越してから、生活スタイルがだいぶ変わりました。

まず夜型人間から朝型人間に変わりました。地方には夜の楽しみがまったくありません。東京では考えられないですが、街灯すらまともにないですからね。そしたら自然に早寝早起きができるようになりました。近くにお店もあまりないので、自炊メインのシンプルな暮らしに変わりました。健康にはうってつけですね。

そして、登山狙いで信州に引っ越したことも理由ですが、休日にはひたすらバイクを走らせてアルプスに登るようになりました。アルプスには本当に素晴らしい山がたくさんあります。登っても登っても登りたい山ばかりですね。

さらに、一人ぼっちの生活から楽読に出会い、本来の自分に気付くことも増えました。これから先の人生をどう生きていきたいか、本当に実現したい夢は何なのかについて考える時間も増えました。そして行動を起こします。自分の強みを存分に発揮し、やりたいことを形にしていきます。失敗することもあるでしょう。でもまったく気にしません。どうせ人生って失敗だらけなんで。

ぜひ、応援宜しくお願いいたします。

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